ユーモアを不謹慎だと封じること、「トータルとしての現実」に近づけない ー田中俊之

田中 以前、男爵との対談で「男らしさ」について話をしましたが、お笑い芸人さんの世界も会社員の世界も、どの分野も競争社会ですから、競争心や男らしさが要求されます。
基本的には競争心があったり、男らしかったりすることはいいことだと思われていますけれども、一方で、テレンス・リアルという臨床心理士が、こんなことを言っています。

 男のうつ病の皮肉なところは、うつ病をもたらす原因と同じ要素が、病を正視させないように作用していること→「男は脆弱であってはならない。苦痛は乗り越えなければならない。それができないことは恥である」

テレンス・リアル『男はプライドの生きものだから』

つまり、男は、脆弱であっては駄目だとか、苦痛を乗り越えなければいけない。それができないことは恥ずかしいと、自然とそういうことを思ってしまう。先ほど男爵も言っていましたが、責任感の強い男性ほど、それを内面化しているのです。妻から見れば頼りになる夫だし、会社でも頼りになる社員だと思うんですね。ただそれがプレッシャーになって、精神的な問題を生んでいる。
ただ、外からは見えないわけです。テレンス・リアルさんが言うように「皮肉」ですよね。立派に頑張っているのに、内面は悪くなっている。
だから、周りが、あいつは頼りになる、馬車馬のように働いてくれる、と思っていると、男性の場合は、どんどん悪くなって起き上がれないようなレベルになるまで鬱病が発覚しない人もいる。
そうだとすると、やはり物事は両面を見た方がいい。競争しなければ勝てないし、責任感や忍耐力があって男らしいことはいいのですが、それが一方で男性を傷つけている側面もあるということは、ちゃんと見ておかないといけないと思っているんです。

山田 確実にしんどくはなってますよね。

田中 人間はいろいろな深刻な問題を抱えているんですね。それを「笑い」で切って、正論ばかりの世の中に一矢報いたいと思います。
ピーター・L・バーガーという社会学者が『癒しとしての笑い』という本の中で、ユーモアが分からないことは、知的なハンディキャップだと言っています。

ユーモアの欠如はひとつの知的ハンディキャップということになる。それはある種の洞察の可能性を遮断するばかりか、おそらく全体としての現実に近づくことを妨害する。だからこそユーモアに欠けた人間は憐れむべきである。

ピーター・L・バーガー『癒しとしての笑い』

つまり、ユーモアを不謹慎だと封じることは、トータルとしての現実に近づけなくしている、ということです。
「ユーモアに欠けた人間を哀れまなければいけない」というのは、いまの日本の風潮を考えると、すごく気の利いた言葉だと思うんです。正論ばかりで、少しルールを犯した人間を叩いてもいいという風潮があるわけですから。
これからする話は、耳障りが良くない話もあると思うのですが、実際にはそういう面を見た方が、バーガーのいう「トータルとしての現実」に近づくことになるんだということです。

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みんなが主人公にはなれない。とりあえず、なれた自分でやっていくんだ、という考えも、大事やと思うんです