質問5 『つながるカフェ』にあった「自分を留守にしていた」という一文が印象にのこりました。なぜ、また、何を留守にしていたのでしょうか?

山納 以前僕は、劇場の仕事をしており、その後、インキュベーションの仕事をしていました。それは、全国レベルで売れている劇団の人や、飛ぶ鳥を落とす勢いのデザイナーらと関わる場所、仕事なんです。関わることによって、まさに変わらざるを得ない、「自分って何者」ということが問われるんですね。

場には、自分より弱い人の頭をなでているだけで成立するものもあります。悪い言い方をすると、「キャンプアファイヤーのお兄さん」と言ったりします。でも、主催元になったときに、10代、20代の若者であっても明らかに僕を凌駕している人たちと出会うんです。恐ろしいことに、彼らのような劇団の方やアーティストたちの中には、学歴はあまり高くない、何かコンプレックスを抱いていて、一発逆転満塁ホームランを狙っていたりする人がいる。劇場というのは、そんな現場です。

当時、僕は、新しいカフェやしゃべり場を作ったり、メディアに“街づくりの◯◯”と書かれていましたが、「どれほどのもん? 自分って何をした?」と、はっきり比較できる対象が側にいてしまうんです。自分は仕組みを作る人としてあるのか、中身を作る人としてあるのか、自分は何者なんだということを問うたときに、しんどくなったんですね。

僕はプロデューサーとして動くことが多くて、今でも朗読劇やラジオドラマを作ったり、何かのアートディレクションをやったりします。そういう現場で求められるのは、誰と誰を引き合わせたということではなくて、できた中身そのものです。まさに、そこだけで闘っているアーティストやクリエイターと同じように、自分も中身で勝負したいと思ったときに、「自分を留守にしている」と強く感じました。

先ほど「博覧強記」の話をしました。難しいこと、すごく専門的な知識を披露しながら、この人は、本当は「私はここにいます」ということを伝えようとしているのかもしれません。そんなことを考えながら一方で、僕は、たぶん、あらゆる機会を捉えて、自分の足りないところを補ってくれる人を探し続けているんですね。

例えば、認知症カフェやこども食堂をやっている人がいて、それはどうやったらうまくいくのだろうか、まちや地域活性化のためにはあと何が必要なのだろうとか、といったことを、僕もずっと考えていて、何が最後のピースなるかわからない。

まさに、博覧強記というのでしょうか、僕自身が、誰かが言ってくれた何かを自分の中でどう受け止められるのか、知識のレベルでも、相当研ぎ澄ませています。人と関わりながら、受けとめられるようにする基礎訓練を、日々やっておこうと考えています。

質問 才能のある方たちと接していると、どうしても自分の欠けている部分が見えてしまったということでしょうか?

山納 コンプレックスをかき立てられるという意味で、最初はそうでした。けれども、例えば、自分がそこそこサッカーができるようになったときに、ドリームチームに入りたいという気持ちと、今ここにいる人たちに強くなってほしいから関わりたい、という両方が生まれる。僕はたぶん、自分がどれほどのものかを知りたいという欲望を手放していないんです。だからこそ、そんなことを考えるんじゃないかと思います。

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6 自分から声を発することができない子たちの思いを引き出すには?